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ロンドン万博

ロンドン万博

世界で初めての万国博覧会は1851年に開催されたロンドン万博でした。

水晶宮クリスタル・パレスという名のガラス張りの建築がロンドン・サウスケンジントンのハイド・パークに建てられ、水晶宮そのものが万博の最大の目玉となる展示物でした。現在では、跡地のみが公園として遺されている水晶宮ですが、当時最先端の技術であった鉄骨の柱にガラス張りの壁面の建築物が描かれた資料が遺り、ロンドン万博の雰囲気を伝えています。このころのイギリスはヴィクトリア女王が在位したため「ヴィクトリア期」と呼ばれています。ヴィクトリア期に作られたホールマーク付きの銀器やアンティークジュエリー、時計、家具、カップ&ソーサーなどは「西洋アンティーク」として愛好されております。西洋アンティークとして遺される品々を産んだ最大の契機であったといえる1851年のロンドン万博について振り返ります。

アルバート公とロンドン万博

1851年のロンドン万博は、当時の王立技芸協会:ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ(The Royal Society of Arts、RSA)の会長でありヴィクトリア女王の夫として有名なアルバート公が主導し、最大の投資を行って大成功させた万国博覧会でした。アルバート公は王室内の改革と大幅な経費削減に手腕を振るい、ヴィクトリア女王との間に九人の子をもうけ42歳という若さでこの世を去りました。女王の秘書・顧問としてヴィクトリア女王を支え続けたアルバート公の人気は、後にも先にもこのロンドン万博の前後だけだったと言われています。ヴィクトリア女王はまだ真っ黒なモーニング(mourning:喪服の)ドレスに身を包んではおらず、近代化の曙である産業革命後のわずかな明るい時代の頃のことです。ロンドン万博は、現在のイギリス公文書館の館長補佐であったコールという名の人物が1849年にパリで行われた産業博覧会を参観した際、フランスが万博を開けなかったことを知り、その当時イギリス国内で企画していた国内博覧会の内容を拡張した形で「イギリスで万博を開けないものか」とアルバート公に進言したことが契機となり準備が進められました。

ロンドン万博の成果

ロンドン万博で結果としてイギリスは52万ポンドの収入を得ました。この額は現在の日本円に単純換算すると約9000万円ですが、18世紀における価値ですので莫大な額となります。そのうち18万ポンドあった利益を元にして

  1. ヴィクトリア&アルバートミュージアム

  2. ロイヤル・アルバートホール

  3. イギリス国立科学産業博物館

が建てられました。

それらは1851年のロンドン万博から2016年現在で165年が経った今もなお、世界一流の学術研究と芸術・科学の成果を発信する拠点であり世界中からイギリスを訪れた人々が集まる観光スポットでもあり続けています。

ロンドン万博 1851年

1851年のロンドン万博参加国34ヵ国、会期は141日間で一日当たりの入場者数は4万3000人でした。会期中の延べ入場者数は約604万人で当時のイギリスの人口の3分の1、ロンドン人口の3倍に当たる数になります。ロンドン万博が開かれた19世紀後半のイギリスの主要産業は第一次産業(伝統的な農林水産、牧畜など)から第二次産業(製造業、工場生産業)へ移行し、産業全体が機械化に移り変わっていくなかにありました。

産業革命より世界の近代化への進歩を先駆けた「世界の工場」であるイギリスにとって、万博はイギリスが持つ圧倒的な工業力を世界に知らせる契機となりました。

ロンドン万博がこれほどまで多くの入場者数を記録した要因については

  1. イギリス国内で蒸気機関車と鉄道網の普及により地方からのアクセスが格段にあがったこと

  2. 印刷技術の進歩による出版の活性化

  3. 清教徒革命、名誉革命があった歴史的経緯から言論が自由になったことによる新聞の普及

  4. あらゆる読者層に向けた種類の新聞を読むことができるコーヒーハウスが各地にできたこと

  5. 広告を配備する鉄道駅のおかげで広告の場が確保されたこと

といった複数の動きが短期間で同時に起きたことが考えとして挙げられることでしょう。

更に、当時のイギリスは階級社会であったことから、階級別に入場料を設定したことで農民や労働者階級にも最先端の農機具や機械の実物を見て学習できる機会を提供したこと、現在でもイギリスの大手旅行会社として続いているトーマス・クック社の創始者であったトーマス・クックによる団体旅行の実施も入場者数を増やすための重要な要素でした。

イギリス国外からの入場者の増加については定期蒸気船航路で南・北アメリカ、アジア、アフリカに分散する植民地のネットワークを確立していたことが要因として挙げられます。

ロンドン万博の展示品

ロンドン万博への出品者数は1万3937人に上り、半数以上はイギリス国内からの出展でした。

ロンドン万博で展示された品々は

  1. 「美術品部門」(伝統工芸・宝飾品・美術品)

  2. 「原料部門」( 鉱物・化学薬品など )

  3. 「機械部門」( 機械・土木など )

  4. 「製品部門」( ガラス・陶器など )

と分類され、実に広範囲に及んでいました。当時のロンドンは「世界の中心」と呼ばれるほど、世界中からあらゆる人・もの・情報が集まるプラットフォームとなっていたのです。

パリ万博とアールデコ

パリ万博とアールデコ

1925年のパリ万国博覧会アールデコ博覧会」と略され、西洋アンティークの分類における「アールデコ」(Art deco)の由来となっています。1800年代から1900年代の初頭にかけて数多く行われたパリ万博の中でも、特に現在の西洋アンティークと骨董品の世界の成立に対して重要な働きをもたらした1925年のパリ万博と1920年代の風俗について学んでいきましょう。

 

1925年のパリ万博の正式な名称は、現代産業装飾芸術国際博覧会(仏語:Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes)といいます。

何やら長い名称ですが意味は文字のまま、世界各国の企業や職人の団体が出展し、当時最新の装飾芸術や最新のテクノロジーを発表した博覧会でした。1915年に開催予定だった装飾芸術が主題のパリ万博は、第一次世界大戦の影響から延期となり、1925年に開かれたものでした。

パリ万博の背景とモダンデザインの潮流

1925年のパリで行われた現代産業装飾芸術国際博覧会は「国際」とはいいつつも1925年パリ万博の世界各国の出展は全体の三分の一、フランス国内・パリからの出展が三分の二という状況にあり、1925年パリ万博の主軸は開催国であるフランス文化の威信を国際社会に伝えようという点に有ったと考えられます。

なぜなら、

  1. イギリスのウィリアム・モリスジョン・ラスキンが1800年代終盤に主導したアーツ&クラフツ運動
  2. ドイツ工作連盟(例:「バウハウス」という学校を創設したグロピウスブルーノ・タウトらが主導)
  3. ウィーン工房(例:グスタフ・クリムト
  4. ロシア構成主義(例:アレクサンドル・ロトチェンコ、ステパーノワ

といった数々のデザイン運動の勃興によって新しい工業製品のデザインが創造された時期であり、フランスはモダン(現代的)な工業デザインをいち早く打ち出す必要に迫られていました。当時のフランス政府はフランスの輸出産業伸び悩みからの回復を掛け、フランスの工業デザインの先進性・現代性を強くアピールし、経済を活性化させようと試みたのです。

アメリカの黄金時代とアールデコ

一方でアメリカは、1925年のパリ万博へは殆ど出展をせず沢山の視察団の派遣を強化することで、フランスをはじめとするヨーロッパの文化を吸収することに力を入れます。当時のアメリカからのアールデコのアイコンとしてはジャズ歌手のジョセフィン・ベーカーが居ました。ジョセフィン・ベーカーは「クレオール」(フランス領国出身のフランス語話者)にルーツをもったアメリカの黒人音楽である「ジャズ」がヨーロッパで大流行する火付け役となり、その後のアメリカのジャズミュージシャンのヨーロッパ渡行において先駆けた存在となります。

アメリカを代表する建築物である

以上の建物はまさしくアールデコ様式の建築物であり、直線と曲線の鉄骨の形を活かしたビルディングや、コンクリートをカバーするタイルの装飾などが特徴的です。

フランスの自動車製造業の老舗であるシトロエンエッフェル塔に当時の史上最大級のライティングを提供し、効果的な広告を行いました。1925年のパリ万博の参加企業は、いわの美術が買取を行っているブランドでおなじみのガレラリック、ドームをはじめ、銀器でおなじみのピュイフォルカ、陶磁器ではセーブル王立製陶所アールデコ彫刻を代表するチパルス、北欧からは上質な照明器具を開発したルイス・ポールセン、ポール・ヘニングセンのランプなどが一同に軒を連ねたという豪華さです。

1920年代 アールデコの風俗

アールデコ1920年代、アメリカは著しい経済発展を遂げ、大量生産・大量消費がいよいよ世界のスタンダードとなります。テレビジョンの開発から情報メディアは世界的な広がりを見せ、メディアに対する「大衆」(Mass:マス)という存在が確立した時期でした。世界の人々はまだ資本主義に対する期待や将来への希望を持っていました。

ファッションではココ・シャネルが登場し、働く女性を輝かせるジャージ素材のスーツや人造宝石の宝飾品、有名な香水No.9などを次々に発表しました。

アールデコ期は、赤・黒に控えめな金・銀の色使いにくわえ、艶のある質感が持ち味のエナメル、ガラス、人造のパールや宝石がジュエリーに採り入れられます。

映画女優においては、妖艶さと芯の強そうな表情がもてはやされ、マレーネ・ディートリッヒグロリア・スワンソンらはトーキー映画で名演を残します。女性の社会進出と同時にアメリカのたばこ産業は女性を的に広告を行い、頻繁にハリウッドスターが紙巻きたばこやキセルをくわえるイメージを発信しました。タマラ・ド・レンピッカは自動車を運転する女性像などを描き、これまでになかった都市生活の中で自立した女性の像を提示しました。

東西の美を折衷されたジュエリーや香水瓶に伴い、宝飾品と同然のクオリティーをもつシガレットケースも、盛んに作られました。その多くは富裕層の顧客に向けた一点物、オーダーメイドの品物として紹介されました。このように工業製品であってもこだわりぬかれた一点、唯一無二の品を求めた人々がかつていたために、現在の西洋アンティークと骨董品の世界が出来上がっていると考えることも一つの考え方として可能でしょう。元々ジュエリー作家であったラリックはこの時点では香水瓶を世に送り、すでにガラス工芸作家として不動の地位を得ていました。

スッキリした幾何学的な線とパターンを取り入れた都会的な意匠や、映画や「レヴュー」と呼ばれるショービジネスの文化を反映した彫刻や絵画における官能的な人体の表現、体の線をはっきりと見せる衣服に合わせ、妖艶な細い眉と赤いルージュのメイクが流行したアールデコスタイルは、スコット・フィッツジェラルドの小説が原作である「華麗なるギャッツビー」の映画をご覧になると、衣服から建物、庭園の造り方まですべてアールデコ様式で統一された世界を映像でご堪能いただくことができるでしょう。

 

※業者向け原稿作例です。

※画像、サジェスト文面を削除しています。

 

アレックス・カッツ

アレックス・カッツ

アレックス・カッツはアメリカ、ニューヨーク・ブルックリン出身の画家で、美術評論家のローレンス・アロウェイらが定義付けを行い、ウォーホルやリキテンシュタインを輩出したポップアート運動に参加した画家の一人として知られています。

アレックス・カッツの評価

さらりと書かれているのに飽きさせず、印象深い人物画のカッツの絵は「Essential Painting」(2006、大阪、国立国際美術館)という現代美術の絵画に特化した展覧会で日本にも紹介され複製版画の販売も活発化したため、現代アートファンなら「どこかで見たことがある」というレベルまで認知度を上げてきています。

カッツの絵はどこか物足りなく見えることもありますが、最小限の要素によって最大限の表現を打ち出し、見る側が自由に想像できるように描かれているため、絵が飾られた部屋の雰囲気をより親しみやすくします。都会的なアレックス・カッツの絵や版画を買取っておりますので、ぜひお問い合わせください。

1950年代以降、カッツは美術家としての成長・成熟を止めることなく「不変の絵画表現」について周囲が考えられる以上の水準を追求し、自由な創作を続けてきました。その幅は絵画・版画のみならず、ファッション雑誌ハーパース・バザーとの1962年のコラボレーションや、ダンサーのポール・テイラーを描いたシリーズ、ニューヨーク州のハーレム駅構内など複数の公共アートまで広がり、ニューヨーカーのイメージを代弁するような存在となっています。

アレックス・カッツとニューヨーク

カッツの一家は1928年、不景気の波乱のなかでクイーンズ地区のセント・オールバンス(St. Albans)に引っ越しました。クィーンズ地区は21世紀に入ってからマンハッタンに近いほどニューヨークでも高級地区、ビジネス街化がすすんでいますが、人口の約半数は移民の人々で構成されている地域です。クィーンズ地区はマンハッタンから押し出された移民たちが作ってきたという歴史があり、ウィリアムバーグのユダヤ人社会、ベンソンハーストのイタリア人社会、スタイブサントの黒人社会などが独自の民族社会を形成していた背景のなか、都会っ子のアレックス・カッツは「サラダボウル」に例えられるニューヨークの多元的な文化風土で、二度の世界大戦を経験しながら成長しました。

アレックス・カッツの経歴

カッツは1946年から1949年にかけてニューヨークのクーパー・ユニオン(Cooper Union)で絵画のトレーニングをした後、1949年から1950年にかけてメイン州スカウヒーガンにあるスカウヒーガン絵画彫刻学校(Skowhegan School of Painting and Sculpture)に学び、表現を洗練させました。

1954年、カッツの最初の絵画展がニューヨークのロコ・ギャラリーで催されました。

1974年、ホイットニー美術館は「Alex Katz Prints」展を開き、版画の作品を発表します。カッツ自身は50年代から60年代までの画家生活はじめの十年間は創作する中で禅問答を繰り返すようなこともあったようで、1000点以上もの自らの絵を破棄したことをみとめています。1980年にはクーパー・ユニオンセント・ゴーデンス芸術賞を受賞し、平面彫刻にも表現の幅を広げました。

1954年以降メイン州リンカンヴィル(Lincolnville, Maine)のサマーレジデンス(夏期講座)での教育・研究活動において地元のコルビー大学との関係を深めてきたカッツに、コルビー大学側は1984年、名誉博士号を授与しました。1986年にはホイットニー美術館でアレックス・カッツ回顧展が巡回されて話題となり、1992年にはコルビー大学美術館で個展が開かれました。

1994年、カッツの学び舎であったクーパー・ユニオン美術学校は、カッツ自身が寄贈した絵を売却して得た基金と共に「Alex Katz Visiting Chair in Painting」という作品を作りました。基金は若いアーティストの育成や文化の振興の為に活用されています。

1996年10月、コルビー大学美術館はカッツからの作品寄贈を記念して400点以上の油絵、コラージュ、版画をおさめた新棟をオープンさせました。

2007年、カッツの作品展がシカゴのリチャード・グレイ・ギャラリー、ニューヨークのロバート・ミラー・ギャラリーとペース・ウイルデンスタイン(ギャラリー)で催されました。

アレックス・カッツ著作と所蔵美術館

  • 著書:『Alex Katz』 ファイドン・プレス(Phaidon Press)2005年 Carter Ratcliff、Robert Storr、Iwona Blazwick共著

  • 所蔵:コルビー大学美術館 テート・モダン(TATE MODERN)ニューヨーク近代美術館MOMA)

 ※業者向け原稿です。

参考文献あり。画像、サジェスト文面を削除しています。