若干Bi-Fのハートコア

「じゃっかん」言い過ぎて親しい人にも若干移しちゃった。

夏が終了

夏が終了

夏の風物詩、東京レインボーリール・2016ボランティア打ち上げ会が終わった、昨年はいかなかったが、選べない選挙、地域の祭り、昨今の事件への悲しみ、事件報道への怒り、卑近な諍いをないまぜにして起こる悲観を忘れるために参加してみた。

(写真は全く関係ない)

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スタッフ仲間と話していて、やっぱり映画祭の良さを改めて実感したり、日頃の思い思いや、日々いろいろ考えていることの話を聞いたりして良い時間を過ごせた。

日頃Twitterでは社会学的・政治的・臨床心理学的・歴史学的な基底知識から状況を批判的に捉えようとする硬い当事者の方の意見、政治運動系の人々、保守的でないといけない場合を尊重する福祉系の知見をフォローする場合が多い。

芸術文化はそういった事の写し鏡に過ぎない場合があるが、それでもなお芸術文化活動に関わる事によるエンパワー効果はやはり高いと考えている。今年も夏の風物詩の一つに参加できて、良かったな的な件。

当事者を「支援が必要なクライエント」として位置付けて弱者扱いしない場が自分には合う、自分自身はそういう扱いをされたくない。映画祭の打ち上げで語りが止まらない人々も、あくまでこれは通過点であるという語りや「自分はこの先パターナルな支援の被支援者になりたくない」「自分を救うためのカタルシスとしての慈善への傾倒などに危惧を抱いている」「絡めとられる関係から離れたい」「自律的に埋没していたい」と考えているかのような話が多い印象だった。

ド素人に過ぎないので、何らの意義がないが、聞く事、周りのことをあれこれ想う事、他者の問題解決策を調べつつ想定する事には手応えを感じてしまう。

ということもあったが、日常が戻ってしまったので自分が周囲に適応してきたのに罹患した適応障害に問題意識を集中する。そこで「ではどうしたいのか」と八方から(関わる人々のほぼ全てから)問われ、早速、詰んでいる。

さまざまな手続きと審査について、民間では発生しえない手続きの遅さに驚かされる。

苛立ち、どうしてこの遅さが実現するのか知りたくなる。

持論を言ってしまえば、こんな事に陥る可能性がある勤め人よりアーティストの方が、安定している。

 

適応障害といえば雅子さまが上がるが、彼女は改革論を振りかざして諍いを起こしたり、怒りをあらわにしたり暴れたことはあるのだろうか?ご本人が自伝などを出してくれるならば、読みたい、ま、それもないだろうとは思うけど。

解決は、自分が割り切り、さまざまな世間、組織内部の出来事に対して耐えすべきことのために働くことによってできること、必要ならば自分の側が手を引きその場から去るということでほとんど問題はなくなることばかりなのに、今そうすることに戻れなくなってしまった。

基本的には社会にも、周りにも、期待も要求もしないで生きたい。

 

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

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