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パーシー・マッコイド

パーシー・マッコイド

パーシー・マッコイド(1852〜1925年)はイギリスの舞台美術家、著述家、骨董蒐集家であり鑑定家として活躍した文化人でした。

挿絵画家であった父トマス・ロバート・マッコイド(1820〜1912年)の息子として生まれ、若いころはイラストレーターの仕事や演劇やダンスなどの舞台で使用する大道具の設計、幕の絵の制作、衣裳のデザインに携わる幅広い仕事をしていたため、マッコイドは数多く絵を遺しています。

マッコイドの絵については、フィンセント・ファン・ゴッホがアントン・ファン・ラッバルトというオランダ人の画家に送った手紙の文中で「マッコイドの絵はこの上なく素晴らしいエレガンスと、柔らかく繊細な感覚で描かれている」とよく褒めており、マッコイドの質実剛健な手腕はイギリスの舞台芸術の主要な人々からも高い評判を得ました。

マッコイドは多くの劇場の装飾に携わり、イギリスの演劇のための舞台美術のクオリティを上げる立役者として活躍しました。また、ロンドンのキング・ストリート (King Street) にあったセントジェームズ劇場(後に解体)が改装された際に、装飾を設計し、その施工は当時ロンドンでも代表的な装飾業者であったムッシュ・モラン社 (Messrs. Morant and Co.) が行なったといいます。

パーシー・マッコイドの著作について

1897年創刊のイギリスの「Country Life」という雑誌に寄稿していたマッコイドは、イギリスで初めて、イギリスの家具の歴史を1800年代まで検討した本を著しました。

  1. The Age of Oak(オークの時代)』

  2. The Age of Walnutウォールナットの時代)』

  3. The Age of Mahoganyマホガニーの時代)』

  4. The Age of Satinwood(サテンウッドの時代)』

 

この4冊の本は今日も出版され続けています。特にオークの時代からマホガニーの時代までの三冊の中で使われた用語は、イギリス家具の異なる時代とスタイルの分類を表す標準的な用語となり、現在でもつかわれ続ける事となりました。歴史学的に厳密な正確さについては賛否があるものの、この本は西洋史の中で家具がどのように作られてきたかについてご興味をお持ちの方の調べものに役立ち、挑戦しがいのある文献だと思います。

マッコイドは、後に「Country Life」 の発行元から現在も発行されている『The Dictionary of English Furniture(イングランド家具事典)』を共著しました。

パーシー・マッコイドのコレクションのゆくえ

蒐集家であったマッコイドは妻テレサ・I・デントと結婚したのち、ーーーも査定している銀食器、油絵、陶器、家具などを家具調度として整え、ロンドンのベイズ・ウォーターに構えた彼の邸宅「ザ・イエローハウス」で暮らしていました。

夫妻は夏と秋には「Hove」(ホーヴ、あるいはフーヴと両方の発音をする地名)という名の、海を見下ろす高台の立地に建てた「ホーヴ・リア」という名のついた別荘で過ごしていたといいます。マッコイドが蒐集した17世紀から18世紀の家具はこの家にも置かれており「熱心で有能なスタッフ」達が懸命に手入れをしていたと記録されております。右のマッコイドの作品に描かれた人物は妻のテレサです。「ホーヴ・リア」から見える海を奥に描いたものでしょうか。

マッコイドが所有した2つの邸宅にあったコレクションは現在、東サセックス州ブライトンにあり、博物館として公開されているプレストン・マナー(中世時代にプレストンの荘園領主が建てた邸宅)に収蔵され、今ではその一室を飾っています。妻のテレサは生前にブライトン博物館の委員に加わっており、プレストン・マナーを大いに気に入っていたといいます。

遺言としてエンディング・ノートの中にその品物をどう保存してもらいたいかの意思を残しておくということも、コレクションが捨てられてしまったり散逸する事を防ぐ手立てとなります。

サテンウッドとは

和名を「アヤン」といい、アンティーク家具ではイギリス19世紀(西暦1800年代)ヴィクトリア女王が統治し、イギリスが最も栄えた時期の家具の素材に使われていました。ジャケツイバラ科、西アフリカのガボン〜シェラレオネの常緑多雨林、西インド諸島、とくに南ナイジェリア、カメルーン赤道ギニアに分布する木です。心材は明るいレモンのような黄色、辺部分は薄い黄色であまりはっきりとしません。

 

※業者向け記事作例です。

※画像、サジェスト文面を削除しています

フランスのアンティークジュエリー刻印

フランスのアンティークジュエリー刻印

 

世界で最も古くからジュエリーの歴史を重ねてきた国の一つであるフランスでは、盗難品の流通を防ぐことを主な目的として世界でイギリスに次ぐ二番目に「刻印制度」という方策がとられており、金・貴金属には必ず刻印を施さなければ売買してはならないと定められております。鷲の刻印はフランスのアンティークジュエリーで最も多くみられる刻印です。

フランスでは18k以下の金を金製品とは認めないという厳しい刻印の法律が定められているため、18kを超えても18k以下であることは少なく、鷲の刻印の信頼度は高いという人々もいることが特徴ですが、経年変化も経ているアンティークジュエリーの刻印は、プロであっても正確に把握することの難しい情報のひとつでもあるといわれています。アンティークを愛好される方や鑑定士を目指す方はおそらく目の健康には人一倍気を使って視覚を研ぎ澄ませているかもしれません。フランスで作られてから100年以上が経ったジュエリーの主要な刻印である「鷲の頭の刻印」は1838年から存在し、何と現在まで使われている刻印です。「18kは確実にありますよ」ということはわかりますが18k以上で20k台の場合でも同じ刻印であるために、金の含有率を知るにはアバウトな指標にしかなりません。

様々な刻印が重要なフランスのアンティークジュエリー

  1. 金・プラチナ・銀の部分の重量
  2. 使われている宝石の価値
  3. 素材の品位
  4. 輝きの良さ
  5. 宝石のカット
  6. カラット数
  7. 全体のデザイン様式における現在市場での需要

以上の条件の掛け合わせで値付が行われるアンティークジュエリーは、物質としての相場に留まらず、そのものの意匠の素晴らしさ所有されていた状況背景や、その時代の作り手が込めた宝石の取り合わせと頭文字を利用した言葉遊びがある場合なども、価値を勘案する際の大切な要素含まれております。

もしもフランスのアンティークジュエリーの刻印をお知りであれば、アンティークジュエリーをまじまじと見られる機会があった時にそのジュエリーが造られた年代、刻印を入れられた場所の特定が可能となります。

何となく覚えて頂くといつか何らかの役に立つでしょうし、こうしたことを覚えるのは小~中学生のお子様の方が得意かもしれません。日本ではまだまだ子供が美術館や宝飾店でジュエリーを鑑賞するにはハードルもありますが、そんなことはイメージにすぎません。マナーも一緒に学びながら恐れずにどんどん出向くことが大切です。少しづつ日本の美術館にも子供が出入りすることが教育を超えて、大事な文化的慣習となることでしょう。

一つの方法として親子のコミュニケーションに元からお家にあるアンティークジュエリーを出してみて、ルーペで観察することなどは面白い方法かもしれません。

フランスアティークジュエリー刻印の種類

フランスのアンティークジュエリーは刻印によって年代を計ることが可能で、刻印そのものが入れられるまでの経緯も一つ一つ違うところに面白味と深い味わいがあります。資料では右のような表で説明されますが、その一部を一つ一つ説明しますので改めてお調べいただければと思います。

  1. 鷲の頭(三代)
  2. 馬の頭
  3. イヌの頭
  4. サンジャック貝
  5. 三つ葉のクローバー
  6. フクロウ
  7. イノシシの頭
  8. ミネルヴァ
  9. ET
1.鷲の頭

1838年から現代まで続いて打たれている歴史のあるマークです。1800年代から3回もの改正を経て今日のフランス産ジュエリーに使われています。

  1. 一代目の鷲の頭(1838-1847年)19世紀の前半はまだ刻印制度がそこまで浸透していなかったために実際の市場でこの「初代鷲の頭の刻印」のある品に出会う機会はとても少ないです。
  2. 二代目の鷲の頭(1847年-1919年)どのような違いがあるかは資料から1代目、3代目と比較してみなくてはなりません。
  3. 三代目の鷲の頭(1919年から1980年代)1980年代のジュエリーにも、1920~30年代のアールデコのジュエリーにも同じマークが打たれていることが見極めをややこしくしています。例えば形と石の使い方は「アールデコ」そのものに見えても実はそれ以降に造られたレプリカということも良くあるものです。アールデコの1920~30年代に作られたことにこだわりを持っている場合、刻印がややこしいこともあるようです。


フランスの刻印制度は二種類の刻印が併用されていた期間というものも含まれキッチリしているのかアバウトなのか実はあいまいなものです。面白いことに、パリで刻印されたものとそれ以外の地方で刻印されたものとで鷲の顔の刻みには違いがあります。地方の刻印は鷲の目の下にバッテンが入っており、全体もパリに比べて荒々しいですが実際のジュエリーに打たれておりますと、やはり経験数が物をいいます。

2.馬の頭

1838年から1919年までの間だけ使われた刻印です。

3.イヌの頭

 プラチナのジュエリーに刻印されている印であり1912年から現在まで使われています。ーーーではプラチナも査定しております。

 

4.サンジャック貝

フランスで製造された14kの金に最も多い刻印です。動物の頭が多い中、貝のモティフなのでわかりやすいとされています。

5.三つ葉のクローバー 

フランスの金は18Kが標準とされているため、9Kや14Kが使われるのは稀ですが9K(9金)ゴールドにもまれに使われます。フランスの9K(9金)の金の刻印として最も一般的なのは三つ葉のクローバーです。

6.フクロウ

18K以上のジュエリーに刻印されています。フクロウの印は他国から輸入されてきたジュエリーをフランスで認証する際に使われるものであり、例えばイギリスで作られたアンティークジュエリーが輸入されてフランスでチェックを受けフランス国内で刻印が打たれるときに使われるといった具合の刻印ですが、こちらも鷲のマークと同じく輸入品ということをはっきり示すものではありません。

 このマークは来歴の分からないジュエリーにもつけられることもあり、もともとフランス国内で造られたジュエリーであるが刻印の様式を詳しく知らなかったジュエリー職人がフクロウを入れている場合や、オーダーメイドで作られて刻印が最初から入れられていなかったジュエリーに後から打たれているということもあるということです。

アンティーク時計の場合、18世紀当時は時計の機械部分はスイスで多く作られたため、ケースがフランスで作られたと想定される場合もフクロウの刻印が押されていることがあります。時計製造の工程にもよるため機械内部を先に作ったのか、機械を先に作って外側もフランス国内で仕上げたのかによって押される刻印が変わってしまうこともあるという例です。

7.イノシシの頭

フランスの銀のジュエリーに最も多く押される刻印です。

8.ミネルヴァ

フランスのジュエリー以外の銀製品についていることの多いマークです。老舗のフランス語の語学学校のマークに使われているので、フランス語を学ぶ方で見たことがある方は多いはずです。

9.ET

1749年から使われており非常に希少です。金位を示す機能を果たしているわけではなく、本当にアンティークとしての価値がある古い年代のジュエリーにしかついていないという意味で重要なマークです。カラット数は別の方法で調べる必要があります。

刻印のないフランスのアンティークジュエリーについて

様々な事情で刻印が入っていないジュエリーというものもあり、これはこれで「刻印が入っていない」という事実が大切になります。

現在南アメリカで作られているフェイク(偽物の)アールデコ・ジュエリーのプラチナ、シルバーにはこのような刻印はありません。こうして愛好家やジュエリー専門家は刻印のことをたくさん勉強していると思うと、この分野の奥深さと頭が上がらない思いを抱きます。

刻印のないアンティークジュエリーがもつ事情も様々です。

  1. 一番多い例としては指輪のサイズ調整をした際に刻印の部分を切られたケースがあります。
  2. クラスプというパーツ交換の際になくなったケース。ちなみにペンダントの土台などの場合はなるべく刻印のあるパーツを無くさないように直す傾向があるようです。
  3. 純金など柔らかい金属の長期間使用で摩耗したケース。
  4. ジュエリーを作った職人が税金の支払いを避けたこと(どれほど古いジュエリーであっても刻印がないならば、新しく打つことが法律で定められています)
  5. マークを入れると壊れそうなほど細くて繊細なジュエリーのため、職人がマークを打ちたくなかった場合(2㎜以下のジュエリーの場合は免除しても良いという決まりもあります)
以上がその事情の例です。
そして前述のフェイク(偽物)メーカーの場合は、「モダン」と分類される時期のホールマークを使いません。モダンのホールマークを打てば、モダンの作品ということになり、フェイクメーカーの商売としては不都合が生じるということです。しかし精巧にフェイクを作る作り手もいるでしょうし技術の進歩を推すると一概にこれが贋物だとは言えない面も大きいのです。いわゆるフェイクであることやアンティークという点には該当しないジュエリーも本当の金・プラチナ・銀かどうか?品位はどの位かの観点は等しく重要となります。

 

 

※業者向け原稿作例であり正確な情報とは限りません。需要と目的により脚色に応じることが可能です。

※画像、サジェスト用文面を削除しています。

 

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1873年のウィーン万博

1873年ウィーン万博

日本の明治政府が初めて正式に参加した万博(万国博覧会)は1873年のウィーン万博でした。

アールヌーヴォーのガレやラリックたち、印象派ルノワール、ポスト印象派の巨匠ゴッホに影響を与えたジャポニスムという美術史の中で重要な潮流や、ーーーが日ごろ買取している日本の骨董品や伝統の美術工芸を世界が知ることに大きく影響した1873年のウィーン万博を振り返ります。

日本はそれまでの万博においては1862年のロンドン万博での日本コーナーにおいてイギリス駐日大使であったラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock)という人物のコレクション展示が行われた事と、1867年第2回のパリ万博で江戸幕府薩摩藩佐賀藩が出展し、日本家屋を再現したセットのなかに芸者が座って煙管で煙草を吸う様子を見せ、来訪者に芸者が酒や茶を供するというサービスを行って人気を博したという記録が残されています。

ウィーン万博における日本パビリオンの内容

1873年のウィーン万博で明治政府には、まるで見世物の様でもあった従来の日本の万博出展とは違う、文明開化以後の「新しい日本」を強くアピールする責務が課せられたという背景がありました。日本のパビリオンでは1300坪の敷地面積に神社と日本庭園を作り、白木の鳥居の奥に神殿を置き、神楽堂や反り橋を配置しました。この日本庭園を整備するために呼び集められた職人たちが働く姿も観客の目をひきます。

当時の産業館(日本の産業を紹介する場所)では浮世絵、塗り物の器、焼き物などを展示し、名古屋城の金シャチホコの再現に鎌倉大仏の模型、高さが4メートルほどある谷中天王寺五重塔(東京)の模型や、直径2メートルの大太鼓、日本の民家の模型、直径4メートルの提灯に滝と童が描かれた大提灯など日本文化のシンボル勢ぞろいで見ごたえのある展示がなされ、話題を集めました。このような大きなものを展示するよう指導したのはオーストリアの公使館員ハインリヒ・バロン・ヴォン・シーボルド(Heinrich (Henry) Baron von Siebold)でした。

会場での即売品となったうちわや日本の骨董品、美術品などは日本全国から集めただけでは足りないことが予想されたことから、古道具屋や骨董商、古美術商、道具の製造者も力を出し合って集められた美術品や骨董品は日本各地の名産品と共に輸出されました。

このような日本パビリオンの出展物の選定は、先に述べたオーストリアの公使館員シーボルトと、シーボルトから推薦され江戸幕府に雇われたドイツ人のゴッドフリード・ワグネル博士(Gottfried Wagener)という人物の指導によって行われました。

お雇い外国人のワグネルは日本の強みを匠の技が光る美術工芸品(刀剣、金工品、金蒔絵、螺鈿、塗り物、茶道具、日本各地の焼き物、曲物など)に見出し、主力出展品として選ぶよう指導しました。

平成時代の日本政府・文化庁が提唱している「クールジャパン」にも通じる「日本らしさ」を完璧に押し出すことを目指したのです。

このように、ウィーンとドイツの大使たちによってなされた戦略的なコンサルティングと国際社会における日本をアピールするために徹底されたブランディングがあったことは、ウィーン万博において初参加の日本がパビリオン成功をおさめた大きな理由でした。

当時のウィーン皇帝フランツ・ヨゼフ一世と皇后エリーザベトも来場し、建設中の反り橋の渡り初めを行った事から日本庭園と神社は話題になりました。夫妻がカンナで木を削ったあとの木くずを包んで持ち帰った逸話も残っています。日本パビリオンでは飛ぶように展示品が売れ、即売品のうちわは一週間に数千本売りあげるという成果をあげました。印象派ルノワールの作品のなかにも、うちわを手に持った女性像が描かれた作品があったように西洋の女性の間では日本や中国の扇子、うちわや提灯を手に持つことや部屋に飾ることが流行していました。

ジャポニスムに企業と美術商が果たした役割

ウィーン万博の終了時にはイギリスのアレクサンドル・パーク商社が日本パビリオンの日本庭園の建物、樹木や石の全てを買いあげました。

ウィ―ン万博の日本パビリオンは万博の会期が終了した後も、日本パビリオンはほぼそのままの姿でヨーロッパと日本の貿易の拠点となったのです。

アレクサンドル・パーク商社と取引する契約を結んだ起立工商会社はウィーン万博を契機に日本政府が設立させた企業であり精巧な日本の工芸品を売ることで日本の近代化と外貨獲得に貢献します。この時期の美術品としては真葛焼、柴山細工などが隆盛を極めました。

1878年の第3回パリ万博では、日本の田舎の家屋を再現して好評を得ます。

この万博で起立工商会社の通訳を務めた林忠正は後に美術商としてパリのジャポニスムの立役者として活躍し、のちにアールヌーヴォーを確立した美術商サミュエル・ビングが活躍する下地を醸成する役目を果たしました。このように万博から紹介された日本文化がジャポニスムという美術史的潮流に反映され、グスタフ・クリムトの絵の画中に描かれる文様や金箔使いのような形で自然に西洋美術に溶け込みました。

 

※業者向け原稿作例です。

※画像、サジェスト文面を削除しています。